【今際の国のアトム】58年前の今日、アニメ『鉄腕アトム』放映開始で本当にはじまった「死」の商品化《今日はニャンの日:1963.1.1》
平民ジャパン「今日は何の日」:12ニャンめ
◼︎リセットできない昭和、リセットできちゃう平成・令和
アトムが太陽に向かって学徒出陣してから、幾星霜。死んだ子の年を数えても仕方がない。見渡せば、何度でもリセットできるファンタジー・ワールドが無限に広がっている。
それが平民ジャパンの生きる平成・令和のメタバース、現実世界の仮想化だ。特攻隊の物語は抽象化され、パタン化され、これでもかと繰り返しエンタメ化され、えげつなくマネタイズされ続ける。
そのお金が靖国神社に奉納されるわけでも、英霊のもとに運ばれるわけでも無い。シビアなビジネスに無頓着な平民ジャパンは特攻の意味など、とうに忘れた。
ストーリーはつくりかえられ、いいように利用されてきた。
特攻隊とさえ言っておけば、どんなたわごとにも聖性が与えられる。誰も質すことができない。記者会見は以上で終了だ。
娯楽化された死は、あらゆる形態のエンターテイメントにおいてテッパンだ。平民ジャパンの生活必需品だ。コンビニ弁当、飲み物、お菓子、マンガ、そして死は、同じ棚に並んでいる。誰かの死を待ち望む欲求は、日々自動生成される。今日は誰が死んだかな、何人死んだかなと。ただし、死にざまの描写は省かれる。誰かの死が介在しない物語は売れない。死人の出ないニュースには価値が無い。デスゲーム系コンテンツは、マンガ、ゲーム、ドラマ、最たるものとしてのニュース(報道)において、遍在的エンタメ・ビジネスの十八番(おはこ)であり、テッパンだ。「世界の中心で、愛をさけぶ」、「君の名は」、そして、お隣で大量生産され、日本に放出される韓流ドラマでは、不治の病や隕石や恋人の死は「涙活(るいかつ):能動的に泣くことでストレス解消を図る活動…」の基本要素だ。
アダルトビデオ産業と同じ構造を持ち、いまこの瞬間も粛々と、容赦なく生産され販売される。落涙と射精のカタルシスを促して消費される。
◼︎消費されるコンテンツとしての死
コロナが口火を切った昨年初頭、4コマ漫画『100日後に死ぬワニ』が、死へのカウントダウンを感染拡大してバズッた。意味も分からないうちに勝ち馬に乗ろうとするエネルギーが国民的話題をもたらした。
勝手に解釈、勝手に拡散は、ソーシャルメディアの法則だ。バズッたものの宿命として炎上した。コラボムービーだ、マーチャンダイジングだ、ステマだ、電通だ、いや違うと盛り上がった。
それよりも大事なことは死だ。
死を扱うことは、売れない時代のキラーコンテンツ作りの必須要素だ。
死は感動を呼ぶ。
そして、一つまた一つ、何ごともなかったかのようにスッキリ忘却する。
今日もまた誰かに死んでもらわないと困る。
今日もまたどこかで誰かが死ぬ。
電力のように、ニュースのように、物語≒死は、毎分毎秒消費されている。行きつく先はゾンビゲームだ。
鉄腕アトムの特攻も死を消費する商品だった。
戦争を筆頭に、自然災害における大量の死も、コロナによる有名人の死も、いじめられて死をえらんだ子供の死も、虐待されて死んだ赤ん坊の死も、情報として消費される商品となる。当事者でないかぎり、身近な関係者であってすら、悲しみなどお構いなしだ。抽象化された死は感動のドラマに変換されて、感情消費のために流通する。
アトムの特攻は、九軍神に始まり最後の特攻に至るまで、死ねと言われて死んでいった若者と同様だ。犠牲を強いる側、送り出す側の人間たちの都合によって、いいように美談に作り替えられる。涙をもって讃えられる。
しかし、送られる側、特攻に赴く者たちにとっては、すべて後の祭りだ。
送り出された英霊の声は、送りだした側の者たちの耳には聞こえない。
太陽に突っ込んだアトムの最期の瞬間(死にざま)がアニメに描かれることはない。■
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